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藪の中 芥川龍之介

[藪の中] 投稿日時:2014/07/03(木) 15:28

底本:「芥川龍之介全集4」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年1月27日第1刷発行
1996(平成8)年7月15日第8刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月
初出:「新潮」
1922(大正11)年1月

清水寺に来れる女の懺悔(ざんげ)

[藪の中] 投稿日時:2014/07/03(木) 15:28

 ――そのこん水干すいかんを着た男は、わたしを手ごめにしてしまうと、縛られた夫を眺めながら、あざけるように笑いました。夫はどんなに無念だったでしょう。が、いくら身悶みもだえをしても、体中からだじゅうにかかった縄目なわめは、一層ひしひしと食い入るだけです。わたしは思わず夫の側へ、ころぶように走り寄りました。いえ、走り寄ろうとしたのです。しかし男は咄嗟とっさあいだに、わたしをそこへ蹴倒しました。ちょうどその途端とたんです。わたしは夫の眼の中に、何とも云いようのない輝きが、宿っているのをさとりました。何とも云いようのない、――わたしはあの眼を思い出すと、今でも身震みぶるいが出ずにはいられません。口さえ一言いちごんけない夫は、その刹那せつなの眼の中に、一切の心を伝えたのです。しかしそこにひらめいていたのは、怒りでもなければ悲しみでもない、――ただわたしをさげすんだ、冷たい光だったではありませんか? わたしは男に蹴られたよりも、その眼の色に打たれたように、我知らず何か叫んだぎり、とうとう気を失ってしまいました。
 その内にやっと気がついて見ると、あのこん水干すいかんの男は、もうどこかへ行っていました。跡にはただ杉の根がたに、夫がしばられているだけです。わたしは竹の落葉の上に、やっと体を起したなり、夫の顔を見守りました。が、夫の眼の色は、少しもさっきと変りません。やはり冷たいさげすみの底に、憎しみの色を見せているのです。恥しさ、悲しさ、腹立たしさ、――その時のわたしの心のうちは、何と云えばいかわかりません。わたしはよろよろ立ち上りながら、夫の側へ近寄りました。
「あなた。もうこうなった上は、あなたと御一しょには居られません。わたしは一思いに死ぬ覚悟です。しかし、――しかしあなたもお死になすって下さい。あなたはわたしのはじを御覧になりました。わたしはこのままあなた一人、お残し申す訳には参りません。」
 わたしは一生懸命に、これだけの事を云いました。それでも夫はいまわしそうに、わたしを見つめているばかりなのです。わたしはけそうな胸を抑えながら、夫の太刀たちを探しました。が、あの盗人ぬすびとに奪われたのでしょう、太刀は勿論弓矢さえも、藪の中には見当りません。しかし幸い小刀さすがだけは、わたしの足もとに落ちているのです。わたしはその小刀を振り上げると、もう一度夫にこう云いました。
「ではお命を頂かせて下さい。わたしもすぐにお供します。」
 夫はこの言葉を聞いた時、やっとくちびるを動かしました。勿論口には笹の落葉が、一ぱいにつまっていますから、声は少しも聞えません。が、わたしはそれを見ると、たちまちその言葉を覚りました。夫はわたしを蔑んだまま、「殺せ。」と一言ひとこと云ったのです。わたしはほとんど、夢うつつの内に、夫のはなだの水干の胸へ、ずぶりと小刀さすがを刺し通しました。
 わたしはまたこの時も、気を失ってしまったのでしょう。やっとあたりを見まわした時には、夫はもう縛られたまま、とうに息が絶えていました。その蒼ざめた顔の上には、竹にまじった杉むらの空から、西日が一すじ落ちているのです。わたしは泣き声を呑みながら、死骸しがいの縄を解き捨てました。そうして、――そうしてわたしがどうなったか? それだけはもうわたしには、申し上げる力もありません。とにかくわたしはどうしても、死に切る力がなかったのです。小刀さすがのどに突き立てたり、山の裾の池へ身を投げたり、いろいろな事もして見ましたが、死に切れずにこうしている限り、これも自慢じまんにはなりますまい。(寂しき微笑)わたしのように腑甲斐ふがいないものは、大慈大悲の観世音菩薩かんぜおんぼさつも、お見放しなすったものかも知れません。しかし夫を殺したわたしは、盗人ぬすびとの手ごめに遇ったわたしは、一体どうすればいのでしょう? 一体わたしは、――わたしは、――(突然烈しき歔欷すすりなき
 

巫女(みこ)の口を借りたる死霊の物語

投稿日時:2014/07/03(木) 15:28

 ――盗人ぬすびとは妻を手ごめにすると、そこへ腰を下したまま、いろいろ妻を慰め出した。おれは勿論口はけない。体も杉の根にしばられている。が、おれはそのあいだに、何度も妻へ目くばせをした。この男の云う事をに受けるな、何を云っても嘘と思え、――おれはそんな意味を伝えたいと思った。しかし妻は悄然しょうぜんと笹の落葉に坐ったなり、じっと膝へ目をやっている。それがどうも盗人の言葉に、聞き入っているように見えるではないか? おれはねたましさに身悶みもだえをした。が、盗人はそれからそれへと、巧妙に話を進めている。一度でも肌身を汚したとなれば、夫との仲も折り合うまい。そんな夫に連れ添っているより、自分の妻になる気はないか? 自分はいとしいと思えばこそ、大それた真似も働いたのだ、――盗人はとうとう大胆だいたんにも、そう云う話さえ持ち出した。
 盗人にこう云われると、妻はうっとりと顔をもたげた。おれはまだあの時ほど、美しい妻を見た事がない。しかしその美しい妻は、現在縛られたおれを前に、何と盗人に返事をしたか? おれは中有ちゅううに迷っていても、妻の返事を思い出すごとに、嗔恚しんいに燃えなかったためしはない。妻は確かにこう云った、――「ではどこへでもつれて行って下さい。」(長き沈黙)
 妻の罪はそれだけではない。それだけならばこのやみの中に、いまほどおれも苦しみはしまい。しかし妻は夢のように、盗人に手をとられながら、藪の外へ行こうとすると、たちまち顔色がんしよくを失ったなり、杉の根のおれを指さした。「あの人を殺して下さい。わたしはあの人が生きていては、あなたと一しょにはいられません。」――妻は気が狂ったように、何度もこう叫び立てた。「あの人を殺して下さい。」――この言葉は嵐のように、今でも遠い闇の底へ、まっ逆様さかさまにおれを吹き落そうとする。一度でもこのくらい憎むべき言葉が、人間の口を出た事があろうか? 一度でもこのくらいのろわしい言葉が、人間の耳に触れた事があろうか? 一度でもこのくらい、――(突然ほとばしるごとき嘲笑ちょうしょう)その言葉を聞いた時は、盗人さえ色を失ってしまった。「あの人を殺して下さい。」――妻はそう叫びながら、盗人の腕にすがっている。盗人はじっと妻を見たまま、殺すとも殺さぬとも返事をしない。――と思うか思わない内に、妻は竹の落葉の上へ、ただ一蹴りに蹴倒けたおされた、(ふたたび迸るごとき嘲笑)盗人は静かに両腕を組むと、おれの姿へ眼をやった。「あの女はどうするつもりだ? 殺すか、それとも助けてやるか? 返事はただうなずけばい。殺すか?」――おれはこの言葉だけでも、盗人の罪はゆるしてやりたい。(再び、長き沈黙)
 妻はおれがためらう内に、何か一声ひとこえ叫ぶが早いか、たちまち藪の奥へ走り出した。盗人も咄嗟とっさに飛びかかったが、これはそでさえとらえなかったらしい。おれはただ幻のように、そう云う景色を眺めていた。
 盗人は妻が逃げ去ったのち太刀たちや弓矢を取り上げると、一箇所だけおれのなわを切った。「今度はおれの身の上だ。」――おれは盗人が藪の外へ、姿を隠してしまう時に、こうつぶやいたのを覚えている。その跡はどこも静かだった。いや、まだ誰かの泣く声がする。おれは縄を解きながら、じっと耳を澄ませて見た。が、その声も気がついて見れば、おれ自身の泣いている声だったではないか? (三度みたび、長き沈黙)
 おれはやっと杉の根から、疲れ果てた体を起した。おれの前には妻が落した、小刀さすがが一つ光っている。おれはそれを手にとると、一突きにおれの胸へした。何かなまぐさかたまりがおれの口へこみ上げて来る。が、苦しみは少しもない。ただ胸が冷たくなると、一層あたりがしんとしてしまった。ああ、何と云う静かさだろう。この山陰やまかげの藪の空には、小鳥一羽さえずりに来ない。ただ杉や竹のうらに、寂しい日影がただよっている。日影が、――それも次第に薄れて来る。――もう杉や竹も見えない。おれはそこに倒れたまま、深い静かさに包まれている。
 その時誰か忍び足に、おれの側へ来たものがある。おれはそちらを見ようとした。が、おれのまわりには、いつか薄闇うすやみが立ちこめている。誰か、――その誰かは見えない手に、そっと胸の小刀さすがを抜いた。同時におれの口の中には、もう一度血潮があふれて来る。おれはそれぎり永久に、中有ちゅううの闇へ沈んでしまった。………
 

検非違使に問われたる媼(おうな)の物語

[藪の中] 投稿日時:2014/07/03(木) 15:26

 はい、あの死骸は手前の娘が、片附かたづいた男でございます。が、都のものではございません。若狭わかさ国府こくふの侍でございます。名は金沢かなざわの武弘、年は二十六歳でございました。いえ、優しい気立きだてでございますから、遺恨いこんなぞ受ける筈はございません。
 娘でございますか? 娘の名は真砂まさご、年は十九歳でございます。これは男にも劣らぬくらい、勝気の女でございますが、まだ一度も武弘のほかには、男を持った事はございません。顔は色の浅黒い、左の眼尻めじり黒子ほくろのある、小さい瓜実顔うりざねがおでございます。
 武弘は昨日きのう娘と一しょに、若狭へ立ったのでございますが、こんな事になりますとは、何と云う因果でございましょう。しかし娘はどうなりましたやら、むこの事はあきらめましても、これだけは心配でなりません。どうかこのうばが一生のお願いでございますから、たとい草木くさきを分けましても、娘の行方ゆくえをお尋ね下さいまし。何に致せ憎いのは、その多襄丸たじょうまるとか何とか申す、盗人ぬすびとのやつでございます。壻ばかりか、娘までも………(跡は泣き入りて言葉なし)
 

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